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[원문] 노농파와 강좌파 - 사회주의협회 테제의 학습을 위하여 (1971) 본문

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[원문] 노농파와 강좌파 - 사회주의협회 테제의 학습을 위하여 (1971)

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テーゼ 「序章 社会主義協会の歩み」にかんする討論 (1)

I 労農派と講座派



戦前の日本における苦難にみちた社会主義運動をきづきあげてきた先人たちのすぐれた遺産をうけつぐことなくして、左社綱領も今日の「社会主義協会テーゼ」も存在することはできない。われわれが、ここで「テーゼ」の序章に関連して、戦前の労農派と講座派の諸論争を総括するのはそのためである。このことをつうじて、われわれが今日いかなる教訓を戦前の運動からみちびきだすのか、また日本におけるマルクス・レーニン主義の正しい適用をいっかんして追求してきたのはだれなのか、そのことが明確にされるのである。

A. 戦前のわれわれの歴史をふりかえるにあたって、われわれの先輩の思想的、理論的伝統を、あきらかにしておく必要がある、と思います。
その意味で、最初にいわゆる労農派の問題についておうかがいしたいと思いますが、そのまえに「方向転換論」について若干おききしたいと思います。
かんたんにいって、大衆とくに労働者階級とむすびっかなければ社会主義運動の発展がないという「方向転換論」の思想はまさにマルクシズムそのものだと思うんですが、いま読みかえしてみると、このなかに政党問題があまりでていないように思うのです。したがって、山川さんはこの当時政党の問題をどのように考えておられたか、ということを当時の情勢と関連しておききしたいと思います。

向坂. 山川さんの「無産階級運動の方向転換論」( 『前衛』第二巻第一号、一九二二〈大正一二〉年八月)が書かれたまえに社会主義同盟ができていますが、このなかにはいろいろな要素がいっぱいはいってきたわけです。アナーキストも、社会改良主義者も、社会主義者も、マルクシストも。まだこの時代までは、社会主義運動の戦略とか戦術とか、プロレタリアの党がどうして必要かということは、明確化されていない。反資本主義的要素をすべて結集するというところから出発したわけです。それにたいして、「方向転換論」は第一次共産党との関連、だされたといわれているが、山川さんが党の問題をどれだけはっきり意識されていたかはどうもはっきりとはいえない。ちょうど私が、当時外国にいたこともあって、その点ははっきりとはいえない。労農派のなかで政党の問題をはっきりだしてきたのは、時期はちょっと遅れますが、むしろ猪俣さんだったように思う。その意味で猪俣さんについては、もういっぺん検討する必要があると思う。
あとで無産政党論に関連する横断左翼のことで、山川さんと猪俣さんははっきりちがってくるが、猪俣さんは、前衛党については、ひじょうにはっきり考えようとしていたようだけれども、それをどうしてつくっていくかについては、少し性急でありすぎたのではないか。日本にまだそういう条件ができていないとき、それを性急につくろうとしたのが、横断左翼論になった。雑誌 『労農』のなかで、山川さんに、みんなで疑問をだし、山川さんがそれに答えている問答がのっているが、そこを読むと、山川さんは、大衆政党のなかでマルクシストが活動することによって、大衆を成長させながら、前衛政党をつくっていくという考え方のように思える。

A. 意識のたかい社会主義者が大衆のなかにはいっていって、大衆と結びついて、その成長を土台として、そのなかから強力な革命政党をつくりあげていく、という考方とみてよいわけですね。

向坂. そうです。

B. 大正末年、「結合のまえの分離」という福本イズム盛んになるわけですが、この福本イズムについてどう評価したらいいか……。

向坂. 福本氏は、留学中にレーニンの 『何をなすべきか』を読んで、それを日本に機械的に適用したものと思われる。日本にある従来の政治意識は組合主義的政治意識であるから、ほんとうの社会主義的・革命的政治意識にしなきゃいかん、という 『何をなすべきか』の中心問題を口シアに模倣して日本でもやろうと考えたと思うんです。
その考え方じたいは抽象的にいえばまちがっているとはいちがいにいえないとしても、日本の条件のもとで、いつ、どういうかたちで前衛党をつくるかということは日本の経済、社会、政治の状態を正確に分析する必要ある。ところがかれは、それをしないで 『何をなすべきかにあるとおりのことをあの当時やろうとした。
もっともレーニンによれば、帝国主義というのは資本主義の最後の段階し、その当時日本もほぼ帝国主義の段階にあって、第一次大戦以後の急激な日本資本主義の成長と同時におき矛盾がある。それがかれには日本資本主義の急激な没落というように認識されたのでしょう。そこでこの急激な没落過程に対応して、急拠、前衛政党をつくらばならぬ、いままでの改良主義的な、あるいはレーニンを理解しない、つまり前衛政党というもの理解してない日本の社会主義者、社会主義思想とはっきりとわかれて、マルクス主義を確立しなければならぬ、理論的に確立しなきゃならないと同時に、政党としても確立しなければならないという理論になったのではないかと思う。

A. それにしても、そういう機械的な福本イズムがなぜその当時一世をふうびしたのでしょうか。

向坂. その一つの原因は、福本イズムのなかにみられる弁証法的手法 - それが正しいかどうかはもちろん別の問題が - が受けたということだろう。
当時の日本の社会主義者は唯物史観を経済史観的に理解するという傾向があった。それまでの社会主義者は、第インターナショナルを勉強ているわけで、堺さんや山川さんも主としてドイツ社会民主党の勉強だった。ところが、カウツキーしてメーリングにしても、哲学、すなわち唯物弁証法が不足していた。そこにたいヘん哲学的なことばをつかった福本氏文章がでたもんだから、それがインテリや学生に魅力をあたえた。当時まだ、社会主義思想と労働者階級の結びつきはひじょうに薄弱で、どちらかといえばインテリゲンチャの運動だったわけですから、福本イズムがそれに大きな影響をあたえたわけです。コルシェやルカーチを読んでいたと思われる福本氏が、きわめて哲学的文章で山川さんなんかを批判しわけですから、そういうインテリによって大歓迎された。福本イズムの影響をうけた当時の学生、インテリなどは、福本の文章を丸暗記してしゃべるというぐらいだった。

B. 福本氏の 『何をなすべきか』についての理解はどうなんでしょうね。

向坂. 字面はべつとして内容的な理解はだめだろうな。運動をやったことがなく、国際的な運動も日本の運動の歴史もしらん人間ですから、その理解はひじょうに低かったのではないか。とくに福本イストとしてかれのまわりにいた連中はまったく問題にならなかったいってよいだろう。

A. さきほどお話があった福本の "急激に没落しつつある資本主義』という規定はどこからでてきたでしょうか

向坂. それはやっぱり、当時矛盾が激化してたということでしょう。独占資本の支配とともに、労働運動もおこってていますし、そういう素地を感じとって、日本資本主義は急激に没落すると感じとったのだろう。だが、当時の日本社会の諸条件にたいする具体的分析はひじょうに不十分です。

A. ラジカルな運動のばあいには、つねに革命的情勢を夢みるという特徴があると思いますが、福本イズムのばあいもその点があったのではないでしょうか。

向坂. そうだな。福本イズムの特徴の一つは、これはかつての日本共産党の特徴の一つもいえると思うが、つねに資本主義が没落していなければ具合が悪いという点がある。ああいうふうにかたっぱしから非合法運動でっかまったり、クビになったりするのに耐えるには、いまどんなに困難な状態があっても、まもなく、社会主義社になるというをあたえなければやりにくかったのでないか。意識にそうでなかったとしても無意識的にそういう考えが作用していたという点があるだろうな。

A. 福本イズムにたいする批判グループとして労農派がつくられたのだと思いますがその発端はどういうかたちだったです。

向坂. 雑誌 『労農』がでるまえに、鈴木茂三郎さんらを中心に 『大衆』という雑誌がでている。これには大森義太郎、有沢広巳それに山田盛太郎らがはいっていた。
『労農』がでたはそのあとです。たしか何人くらいが労農同人になった。同人をすいせんするは、やはり同人のすいせんがなきゃならなかったけど規約はなかったんじゃないかな。最初は、堺、山川、荒畑寒村、黒田寿男さんたち。そういう人たちと、猪俣さんがいっしょになった。 『労農』がだされたのは昭和二年ですが、福本イズムとの論争をつうじて相当の影響力をもっていた。労農派というのはきわめて微弱な勢力だと思っていたら、検挙されてみてあんがい深い根をもっていたことがわかった、と山川さんがいっかいってらしたが、全体として約四〇〇人くらいが検挙されたんじゃないか。その四○○人のなかにはいい活動家がそうとういたようですね。

B. 福本イズムが台頭したころ、単一無産政党の分裂がおこっていますが、たしか一九二八(昭和三)年ごろ無産政党の大結集がおこなわれています。山川さんなんかの当時の労農派の運動というのは、具体的にはそういうかたちだったわけですか。

向坂. そうです。政治運動としてはね。さっきちょっとふれたのだが、そのころ横断左奥の問題があった。それにたいして山川さんは反対のようだった。山川さんはまず、日本大衆党を、労働者大衆の党としてかためなければならない。そのうえであるかたまりができたら、横断的な左翼をそこでつくって、日本大衆党をしだいに左翼にもっていく、そういう考え方のようだったな。

Aその当時の日本共産党はロシア型のソビエト革命方式を唯一の革命方式とするコミンテルンからあたえられたテーゼにしたがって、それにあてはめるかっこうで日本を分析していたと思うんです。コミンテルンが一つの世界党であり、日本がその支部である、という点はそれもとうぜんであったと思うわけですが、そのために日本に関する分析が半封建的社会であるというかたちになったとみてよいわけですか。

向坂. それもあるでしょう。だが、日本の共産党は本来、わが国をひじょうに封建的なものと考えていた。
山川さんばあいは、本来ブルジョア民主主義というはブルジョアジーによって担われるものだけれども、帝国主義という、資本主義のさいごの段階においてはそを維持するためにブルジョアジーによってはげしい反動化―思想の上でも、制度上もがでてくる。それにたいする抵抗として、民主主義を主張し、かつ、実施ていくためには、統一戦線単一無産政党といいますかそういうものの成長と抵抗によらねばならぬと考えた。
ところが共産党はそうじゃなくて、大地主としての天皇制があるじゃないか、ロシアにおけるツァーリズムと同じような封建的な天皇制があるじゃないか、この封建的な支配勢力を倒さなきゃならない、と考えた。日本共産党自身がそういう封建的なものとして日本を理解していた。だから日本を封建的な社会としてみるのをコミンテルンのせいばかりにするのはまちがいだと思う。ロシア革命やレーニンの初期の著作についてのまちがった浅い理解が日本共産党にあった。それが日本の社会についての科学的分析や理解の不足をもたらしたといってよいのではないか。
たしかに当時、天皇制というものがあって、天皇家がいちばん広大な土地をもっていた。木曾の山林だって、明治維新のときみんな天皇家のものになった。けれども、そういう森林がいちばん近代的に経営されていた。封建的な意味での土地所有というようなものではなかった。それから、つぶれた第一五銀行のばあいもその設立には天皇家がいっぱいカネをだしている。このように、天皇家じしんが、近代的な銀行という組織にはいりこんでいたわけですから、日本の天皇制をツァーリズムとおなじものと考えるわけにはいかない。
日本共産党が、日本の社会を半封建的なものとしてとらえた基礎には明治維新についての誤ったとらえ方があった。明治維新をブルジョア革命としてとらえることができなかったから、そのあとの社会も絶対主義になったわけです。
堺さんや山川さんたちは日本の情勢については共産党がいっているのはまちがいであるということでたたかったわけですが、コミンテルンは堺、山川は日和見主義でめるという批判をした。おそらく、そういう批判をした裏には共産党系の情報だけをコミンテルンが信用したということがあったと思う。ことごとく堺、山川、荒畑を敵視するような報告がつくられたんじゃないか。
だけど山川さんは一方ではそういうコミンテルンにたいして批判をひじょうにもちながらも、マルクス主義そのもの、レーニンそのものを低く評価するということはしなかった。たとえば、カウッキーを独裁の問題でやっつけたのは山川さんです。 『社会主義研究』のなかで、プロレタリア独裁をはっきりわれわれにおしえて、カウツキーをもうれつに批判している、このことをいつか書こうと思うけれども……。

B. 戦前の日本共産党と労農派の意見のちがいについて、 『社会主義』の五周年記念号の座談会で山川さんがつぎのようにのべています。長文ですが、これについて先生のご意見をおうかがいしたいと思います。
〈以下、山川氏の発言〉
山川. 社会主義思想の第五次の分化 - この時代になると思想の分化は同時に運動の分化という性質がますます濃くなるのでありますが、これは一九二五(大正一四)年ごろに始まって、一九二七(昭和二)年に決定的になった。コミンテルンの指揮する日本共産党と、これに対立するマルクス主義者―機関雑誌の名前から「労農」派とよばれた - というように、マルクス主義陣営自体の分裂は、わが国の運動史上初めての事態であるばかりでなく、この二つの流れは現在もわが国の運動を貫いている二つの太い線であるという点で、きわめて重要な意義をもつものだと思いますから、両者の意見の対立したおもな点だけをあげてみましょう。

1. ボリシェビズムの評価

共産党ー レーニンによってマルクスの理論を発展させたマルクス=レーニン主義(ボリシェビズム)こそはマルクシズムの唯一の正統的な発展であり、帝国主義の段階にたっした資本主義の時代における唯一、真実のマルクシズムである。そしてこの理論によって勝利した口シア革命の実践こそは、社会主義革命の唯一の普遍的な方式である。したがってロシア革命における実践は、普遍的な基準としてわが国の運動にもあてはまる。

労農派ー レーニン主義(ボリシェビズム)はマルクスの理論から出発し、ロシアの特異な条件に適応した実践のなかから発展させられた理論であって、したがってボリシェビズムは多分に口シア的性質をもつものである。そしてそれ故にこそ、それはロシアの特異な条件のもとで革命を成功させた勝利の理論となりえたのである。ボリシェビズムがマルクシズムの発展であるというのは、それマルクスの基本理論からの唯一の発展 - 唯一の実践の結論 - だという意味ではなく、マルクスの基本理論をロシア革命の特殊な条件に対応して、革命運動の実践のなかで発展させたものだという意味においてである。このような意味では、各各の国の革命運動は各各の革命理論を発展させなければならない。将来、帝制シアとは異なった条件のもとで達成される社会主義革命は、マルクス理論のロシア的発展であるボリシェビズムとは異なった革命理論を発展させるにちがいない。わが国の社会主義運動の任務は、われわれ自身の革命的実践の理論を発見し確立することであって、そのためには、特定のときとところとの条件に適応したマルクシズムの発展としてのドイツ的社会民主主義や口シア的共産主義(ボリシェビズム)をまねることではなくて、マルクスにかえって、そこから出発することが必要である。

2. コミンテルンの評価

共産党ー 第三インタナショナル(コミンテルン)は第二インタナショナルのような各国の国別的な党の寄せ集めではなくて、コミンテルン自体が一枚岩でできている単一な党、すなわち世界的党であり、各国の共産党はこの世界党の集中的な指揮の下にある一支部である。そして全世界各国のプロレタリア運動はモスクワの指令のもとに進められるべきなのであり、全世界の社会主義革命はモスクワという一つの指導部の指揮によって達成されるものである。

労農派ー 条件を異にするそれぞれの国の社会主義革命は、その国の土壌に根ざして発生し成長した社会主義運動の自主的な行動により、その責任において達成されるべきものであって、世界の一中心から指導されるべきものではない。社会主義運動の国際主義は、単一な世界党というかたちで実現されるものではなく、自主性をもった各国の社会主義運動の緊密な国際的協力によって成立つべきものである。(第一インタナショナルが単一な党としての組織原則を採用した一半の理由は、国別的な党も運動もまだ存在しなかったという事実を反映したものである。第二インタナショナルの国家主義的偏向を批判するのは正しいが、それ故に第一インタナショナルの伝統に復帰するというのは、第二インタナショナルの全時期における各国の社会主義運動の発展の歴史的意義を理解する能力のないものである。)

3. 政治上、経済上の分析

戦略論の基礎となる政治上、経済上の分析についても、共産党と労農派 - というよりもコミンテルンと労農派といった方がいいかもしれないが - 両者は大幅に異なった見解をもっていました。すなわち

4. プロレタリアートの戦略目標

共産党ー 日本を支配しているのは天皇制というかたち・での絶対主義であって、日本は絶対主義国家である。それ故にプロレタリアートの政治闘争の目標は天皇制の打倒であり、プロレタリアートの戦略目標はブルジョア・デモクラシーの革命である。ブルジョア・デモクラシーの革命が達成されたとき、はじめて社会主義革命がプロレタリアートの戦略目標となる。(この点、ロシアの三月革命と一一月革命の関係と同じである。わが国の革命の展望にたいするこのような見解が、当時、二段革命論とよばれた。

労農派ー われわれの政治闘争の対象は金融資本・独占資本を中心として結集された帝国主義的ブルジョアジーの政治勢力である。わが国はブルジョアジーの政権がすでに確立されているブルジョア国家(資本主義国家)である。ブルジョアジーの民主主義革命が徹底的に行なわれなかったわが国には、天皇制を初め多くの封建的な遺物や遺制が残ってはいるが、それらは(天皇制そのものも)もはや独立した政治勢力ではなくて、ブルジョアジーの政治勢力のなかに吸収または同化されて、その一部をなすものとなり、またはその支配力をつよめる道具になっている。地主階級もある程度にブルジョア化し、ブルジョアジーの政治勢力に対立するものとしての絶対主義の社会的基礎をなすものではなくなっている。それ故に、このつぎに展望される革命(政権の階級的移転を意味する革命)は、ブルジョアジーへの政権の移転であるブルジョア・デモクラシーの革命ではなくて、ブルジョアジーにかわってプロレタリアートが政権をにぎる社会主義革命のみであり、それ以外の革命はありえない。したがってプロレタリアートの戦略目標は社会主義革命である。プロレタリアートが社会主義革命を究極目標とする闘争の過程において、政治的自由と政治的権利が拡大され、革命の達成によって、ブルジョアジーが実現しえなかった民主主義の実現が達成される。

ー この見解は、私のみるところでは、完全に正しいと思う。三〇年後のこんにちもなんら修正をくわえる必要がない。ただ一つ労農派の政治分析のなかに勘定にいれられていなかったことは、敗戦の結果、アメリカの占領政策によって日本の民主化が行なわれたことです。しかしその占領政策による民主化はわれわれが予言したとおり、早くもその限界にぶつかって不徹底に終わったばかりでなく、アメリカ占領政策自体が、まもなく民主化を逆転させる作用をするものになったのです。こうして民主主義の徹底が社会主義革命を究極目標とするプロレタリアートの闘争にかかっているという事実は、こんにちも変わりはないのです。
ところでむかしの共産党は、正視にせよヤブニラミにせよ、ともかくどこか一ヵ所をみているらしかった - たとえば二段革命といったような - が、いまの共産党はどこをみているのかわからないというと、ある人が、それは夢だろう、と答えたので、大笑いしたことがありますが、正直なところ、いまの共産党はどういう理論をもっているのか、われわれには皆目わからない。東欧や中国で人民民主主義が流行しだすと、共産党はさっそくこのニューモードに衣替えする。きたるべき革命における共産党の任務は、民主民族戦線をつくり、「人民民主政府を樹立して社会主義の達成に前進する」ことであり、「それを成しとげるためには人民民主主義の道を通らなければならない」というのだが、この人民民主主義政府の樹立が「人民民主革命」であって、「その権力の本質はプロレタリア独裁であり、ここに人民民主革命の階級的性格がある」というのだから、二段革命論のようでもあり、一段革命論のようでもあり、あるいは新版二段革命論とでもいうのでしょうか。現在の段階における戦略の目標は人民民主主義革命で、この革命で民族の解放が達成され、それから社会主義革命というのなら、戦前のブルジョア・デモクラシーの革命に民族解放の革命がおきかえられただけで、二段革命論のようにもみえる。しかしこの革命でできる人民民主主義政府の権力の本質はプロレタリア独裁だというのだから、人民民主主義革命即プロレタリア革命という意味にもうけとられる。ところでこのプロレタリア革命の主体となる民主民族戦線は、ごく少数の「売国的資本家」をのぞいての、中小企業者はもちろん、「富裕な」資本家までもふくまれる国民的な統一戦線なのだから、ますますわからなくなってくる。ともかく、昨今の共産党の特徴は強度の民族主義であって、日本ではひと握りの売国資本家をのぞく全ブルジョアジーも労働者といっしょに、プロレタリア独裁を意味する人民民主主義政府を樹立する革命にたちあがるという珍しい階級分析の上にたっているわけです。こうなると、独占資本の支配する資本主義国日本のことではなくて、遠方の植民地国の話でも聞いているような気がするのです。ところがこういう民族主義または国民主義的な考え方を労働組合運動の中へうけ売りしている人たちもあるようです。
少しわき道にそれたから、話をもとにもどしましょうう。つぎに現在(当時)の段階においてマルクス主義者はまずなにをなすべきかという問題です。ここで例の「結合の前の分離」論がでてくるのです。

5. 政党の組織

共産党ー 結合する前にまず分離せよ。マルクス主義者(このばあいはボリシェビズムの信奉者)はボリシェビズム以外の理論をとる人びとからきれいに分離して、ロシアのボリシェビキ型の職業革命家の党を組織しなければならない。

労農派ー 一般大衆にとっては、資本主義か社会主義かの二者択一はまだ当面の現実の問題になっていない。それ故に現実にブルジョアジーの利害に対立した利害をもっているすべての社会層を、反ブルジョア戦線に結集する大衆的な政党を組織しなければならない。大衆的、革命的な政治運動の伝統と訓練のないわが国では、とくにこのことが必要である。かかる性質をもつためには、この政党は、合法的に存在する政党でなければならない。われわれは合法的な舞台から逃避するのではなしに、合法的な行動領域を実力によって拡大して行かなければならない。現在(当時)の段階におけるマルクス主義者が第一に果たすべき任務は、このような政党の組織 - すなわち反ブルジョア政治勢力の結集と成長とに積極的な役割を果たし、この政党の闘争のなかで、大衆に密着しつつ、その指導力を拡大することである。

6. 無産政党にたいする態度

共産党ー 共産党以外の労働者農民政党(無産政党)にたいする共産党の態度は、三つの時期によって変化した。無産政党樹立運動の段階では、無産政党は反ブルジョア的な作用をもついっさいの要素を包含するところの、共同戦線的な性質をもつ政党でなければならないという思想を全面的にうけいれ、全国的な単一政党の実現に協力した。労働農民党が共産党の外郭組織的な性質を帯びるようになった第二の段階では、共産党は労働農民党以外の無産政党をブルジョアの手先の党として排撃しし、鋭くそれらと対立した。労働農民党が共産党の外郭組織とみられて解散命令をうけた後の第三の段階では、共産党は、非合法化された共産党以外のいっさいの合法的な政党を原則的に否定した。そしてそれらの政党が合法的に存在しうることが、ブルジョアの手先の党である証拠だと主張した。

労農派ー 無産政党樹立運動以来、共同戦線的な性質をもった単一な無産政党の実現を主張した。多くの無産政党の分立した時期には、すべてこれらの諸政党は、本質的には異なるところのない、単一な反プルジョア戦線に組織されうる社会的要素から成立っているものとみて、無条件的に合同する運動を推進した。

7. 労働組合の組織

共産党ー コミンテルンの指導下にあったプロフィンテルン(赤色労働組合インタナショナル)に属する別個の労働組合すなわち右翼的な組合に対立した左翼組合を組織する、いわゆる二重組合主義をとった。(こうして「結合の前の分離」説が組合運動のなかにももちこまれた。)

労農派ー 二重組合主義を排撃して、労働組合運動の戦線統一をつよく主張した。「労農」は、「宗派的分裂主義との闘争」「政治的統一戦線の形成」とともに、「組合運動の全国的統一」のスローガンをかかげて発足した。

8. 労働組合運動にたいする態度

共産党ー あらゆる機会に労働争議を激発し、それらの一つ一つの争議は、たんなる労働条件改善のための闘争から、革命的な政治闘争(国家権力奪取の闘争)に転化しなければならない。すべての労働争議はこのような見地から指導され、争議の成果も、革命の予行演習としての見地から評価されるべきものである。労働組合運動が組合主義、経済主義を止揚して、「マルクス主義政治闘争に全面的に前進する」とは、こういうことを意味するものである。

労農派ー 組合主義の意識からマルクス主義的政治意識への発展とは、個個の労働争議を革命的な政治闘争に転化することでもないし、労働階級の意識と運動とがマルクス主義的な政治闘争の段階に発展することによって、労働組合の経済闘争が無用になり、またはその意義が小さくなるものではない。プロレタリアートの社会主義革命を目標とする闘争と日常生活をよりよくするための闘争との関係を機械的に考えて、これを区別してはならない。( 『社会主義』五周年記念号、一九五六<昭和三一>年10日、「日本の社会主義山五〇年の歩み」座談会から)以上山川氏の発言

向坂. 労農派も、かならずしも、マルクシズムの全理論分野で完全に一致していたわけではない。私と大林茂太郎とはこの点でもほぼ一致していたと思います。というのは、かれとは、一週間に一度はかならず会っておりました。かれが中央公論社でだした 『唯物弁証法読本』はたいへんられた本だが、私はしばしばかれの執筆に協力を求められました。基本線で不一致のところはない。二人はよく議論をしたが、しまいには一致しておりました。大森とはじめて会ったときはかれはカントの 『純粋理性批判』の原本をもっていた。それが、印象的です。いまから桑木厳潔さん(文学部の哲学の教授)のゼミナールにでる、といっていました。かれとの初めての議論は、私のそぼくな唯物論とかれのカント的観念論との衝突でした。これは一九二三(大正1)年のことです。このころからかれとの親密な交遊がはじまりました。しかし、私が一九二五(大正一四)年にベルリンから帰ったときは、かれは立派な社会主義者であり、唯物論者でした。これ以後、かれと私とは、思想も行動も同じだった。
マルクシズムとレーニニズムの問題についても、大森と私とはちがっていなかった。山川さんとは、この点で十分話をしたことはありませんでした。しかし、私はそのころつねに一つの不安をもっていました。それは、どうも山川さんとかならずしも一致しない点があるらしい、ということです。運動の上では山川さんの指導に不安はないが、マルクスの思想の正系のあとつぎがレーニンであることについてかならずしも一致しないものがあるのではないかと思っていた。私は一九三二(昭和七)年二月 『レーニン伝』をだしました。一九三一(昭和六)年に鵠沼で書いたものです。これは、マルクス主義の世界観が、新しい時代(帝国主義の時代)にレーニンの理論においてのみ正しく受けつがれているという考えの上に書かれております。私は、レーニンを読みはじめたときから、労農派の一員となったときまで、さらにこんにちまで、レーニンの理論をマルクシズムの唯一の正系の嫡子(ちゃく)だと思っています。
レーニンは、ロシア革命の実現を指導した。そのたたかいの戦略と戦術は、むろんロシアの社会的歴史的条件に適用したマルクシズムである。このことに関するかぎり、ロシアの条件にのみ合ったものを、日本で適用することはできない。しかし、その具体的歴史的条件を貫いているマルクシズムの理論(世界観といってもよい)に関するかぎり、正しいマルクシズムである。どこの国でも適用できる一般的な理論である。この一般性が、ここで私のいうマルクシズムの世界観である。私は、この点に関するかぎり、いまも正しいと思っている。しかし、この理論、この世界観を日本の歴史に、日本の社会主義革命の理論、日本の社会主義革命の運動に適用するばあい、われわれは、われわれの頭を、自分の肩の上にのせており、独自の理論と社会主義者としての態度をもたなくてはならない、と思う。一般性は特殊性をとおしてのみ実現される。理論は本来そういうものである。だからら、私は、山川さんが「ボリシェビズムの評価」という節でのべられていることについては、労農派にはいったときから、こんにちまで山川さんと完全な一致をみていない、と思う。「わが国の社会主義運動の任務は、われわれ自身の革命的実践の理論を発見し確立することであって、そのためには特定のときとところの条件に適応したマルクシズムの発展としてのドイツ的社会民主主義や、口シア的共産主義(ボリシェビズム)をまねることではなくて、マルクスにかえって、そこから出発することが必要である」と山川さんがいっていられることにはむろん賛成である。ただ、私は「マルクスにかえってそこから出発することが必要である」というより、むしろ「マルクスとレーニンにかえって、そこから出発すること必要である」と思う。
右に引用されている山川さんを中心とした座談会の席上でも、この意味の私の意見をのべたのですが、そして山川さんは、私の意見に賛意は表されたのですが、なぜか、この座談会の筆記にはそれがのっていない。
同時に、いっておかなければならぬことは、しかし山川さんは、少しも反レーニン主義者でなかったということである。レーニン主義が、ロシアで曲解されたマルクス主義であるというのではなく、ロシアの歴史に正しく適用されたということで、やはりレーニン主義を高く評価されています。
コミンテルンについても、その指導の仕方に異議をもっていられる。「社会主義運動の国際主義は単一な世界党というかたちで実現されるべきものではなく、自立性をもった各国の社会主義運動の緊密な国際的協力によって成り立つべきものである」とのべられている。私もそのとおりであると思う。しかし、山川さんの意見のなかには、コミンテルン成立の時代(一九一九〈大正八〉年創立大会)は、ヨーロッパ諸国、ことにドイツが、直接的に革命情勢にあったということが、十分に考慮されていないように思った。私は、山川さんのコミンテルン批判に、そのまま同意することはしなかった。この点では、私は猪俣津南雄さんに近かったかと思う。これも、猪俣さんと議論したことはないから、はっきりはいえない。また、ロシア革命とコミンテルンの初期には、世界で最初の社会的大変動のなかに生じた人心の混乱が、「革命家」と称する人間の粗野な思考が、ときとして山川さんに不信の念をいだかせたこともあったかと思う。ことに日本共産党員のなかにこのような人物を発見されたことも、山川さんの不信感をつよめた原因になったのではないか。
共産党を批判しながら、つねに自分を正しいマルクス=レーニン主義の立場におくことは、きわめてむずかしく、共産党のデマゴギーを批判するあまり、いつのまにか自分自身が反共主義におちいることがある。山川さんは共産党員のデマゴギーを批判しながら、つねにマルクス、レーニンの正しい理論を持続していられた。私はこの点で山川さんの冷徹な性格に感心し、社会主義者として一段とすぐれた人であると思った。

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